Masuk『こんばんは』
突然降ってきた声に、サラリアは心臓が止まるかと思った。
同時に、ふわりと花のような香りが漂う。
甘いのに冷たく、夜の空気へ静かに溶けていく不思議な香りだった。
反射的に顔を上げる。
そして息を呑む。
塔の窓の外。
細い欄干の上に、一人の男が立っていた。
月を背にしたその姿は現実離れしている。
漆黒の髪。
長身の身体。
騎士のように鍛えられているのに、どこか獣じみたしなやかさを感じる。
夜そのものが人の姿を取ったかのようだった。
男が僅かに顔を傾ける。
その瞬間、月光が横顔を照らした。
縦に細長い瞳孔。
額に浮かぶ三枚の鱗。
本で何度も見た特徴。
「……竜王」
サラリアが呟くと、男は微かに笑った。
金色の瞳が細められる。
その笑みが恐ろしいほど美しい。
「番がいる気がして来てみたら、まさかサラリア姫とは」
どこか面白がるような声だった。
「死んだと聞いたが?」
「ご存知でしたのね」
「もちろん」
ラーシュは呆れたように肩を竦めた。
「姫の父上は嘘が下手だ」
思わず吹き出した。
初対面の男の前でこんなふうに笑ったのは初めてだった。
後宮で笑顔は武器だ。
自分を守るための仮面。
けれど今は違う。
ただ楽しかった。
ただ、この会話が心地よかった。
「どうしてここにいると?」
そう尋ねると、ラーシュは首を傾げる。
その仕草が意外なほど若々しい。
竜王という恐ろしい肩書きが、一瞬だけ遠くなる。
「姫を探していたわけじゃない」
ラーシュは言った。
「金色姫には多少興味があったが、神の化身だの五穀豊穣だのは信じていない」
その言葉にサラリアは少し驚いた。
誰もが信じていると思っていたから。
「だが民が安心するなら悪くないと思った」
だから招待した。
ただそれだけ。
その言葉が妙に嬉しかった。
初めて自分自身を見てもらえた気がしたからだ。
.
「身柄を要求されたと父は勘違いしたのだと思います」
サラリアがそう言うと、ラーシュはじっと彼女を見つめた。
その視線に胸がざわつく。
何かがおかしい。
そう思った瞬間だった。
「勘違いではなくなったな」
低い声。
心臓が跳ねる。
その目に宿った熱に本能が反応した。
ガタンッ。
勢いよく立ち上がった拍子に椅子が倒れる。
サラリアは反射的にそちらへ視線を向けた。
そして再び前を見て―――固まった。
ラーシュが目の前にいた。
ほんの一歩。
手を伸ばせば触れられる距離。
いつ移動したのかも分からない。
「ここへ来たのは姫の匂いがしたからだ」
「に、匂い……?」
サラリアの顔から血の気が引く。
竜族は鼻が利く。
そんな知識が脳裏を駆け抜けた。
同時に思い出す。
三日。
三日も風呂に入っていない。
父王に押し込められてから身を清める余裕などなかった。
恥ずかしい。
消えてしまいたい。
サラリアは慌てて後ずさった。
そしてベッドへ飛び込む。
毛布を頭から被った。
「っ……」
穴があったら入りたいとはこのことだ。
けれど部屋は狭い。
逃げ場はない。
恥ずかしさを堪えながら、自分の状態を説明する。
「なんだ」
答えは、ラーシュの笑い声だった。
「そんなことか」
「そんなことではありません!」
毛布の中から抗議する。
するとさらに笑われた。
「気にしなくていい」
「気になります」
「気にしなくていい」
優しい声だった。
そして。
「とてもいい匂いだ」
その一言に顔が熱くなる。
心臓がうるさい。
毛布の中なのに耳まで熱かった。
「そんなわけ……」
反論しかけた瞬間。
くい、と髪を引かれた。
毛布からはみ出していた金色の髪を摘まれたのだと気づく。
びくりと肩が震える。
その直後。
ベッドが軋んだ。
ラーシュが腰掛けたのだ。
近い。
あまりにも近い。
毛布一枚向こうにいる。
それだけで呼吸がおかしくなる。
どうしてこんなに緊張するのだろう。
どうしてこんなに嬉しいのだろう。
自分でも分からなかった。
【③次話への誘導】
「竜王様……」
ようやく絞り出した声は情けないほど小さかった。
すると。
「ラーシュ」
囁くような声が返ってくる。
「名前で呼んでくれ」
心臓が大きく跳ねた。
名前。
誰もそんなことを求めなかった。
金色姫。
神の化身。
幸運の象徴。
サラリアはいつもそう呼ばれてきた。
けれど目の前の男は違う。
サラリア自身を見ている。
その事実が胸を熱くした。
「……ラーシュ」
恐る恐る呼ぶ。
するとラーシュは満足そうに微笑んだ。
その笑顔を見た瞬間。
サラリアは気づいてしまう。
もっと見たい。
もっと話したい。
もっと知りたい。
そんな感情が芽生えていることに。
そして次の瞬間。
毛布がふわりと持ち上げられた。
月明かりの中。
至近距離で視線が重なる。
サラリアの呼吸が止まった。
―――この夜が、自分の人生を変える。
なぜかそんな予感がした。
「掘った穴に生ごみを入れます」ごみという言葉に幾人もが顔をしかめたので、サラリアは言葉を変える。「食材には、皮や骨などの食べられない部分があり、そういう部分は料理のときに『生ごみ』として捨てることになります」子どもたちはピンとこないようだが、母親たちの何人もが納得したように頷いている。先ほど竜族の料理を『美味しくない』と言っていた女性が多い。(自分で料理をすることもあると言っていたし、そういう人は忌避感が薄いみたいね)「今回はお城の厨房から出た生ごみを使います」お城と言うと、幾人もの子どもが目を輝かせた。.「お城だって」「お父様も食べたかな」「もしかしたら竜王様かも」幾人かがコソコソとお城の話をする。城に対する憧れと、王であるラーシュに対する敬意が感じられる。そしてその目は自然とトールに向けられる。憧れと崇拝。彼らにとってトールは子どもではなく、王なのだと感じらえる。「母様、ここにいれるの?」でも、サラリアにとってはただ一人の息子。神とか王とか、崇められる存在の孤独をサラリアは知っている。「量が多いので、お城の方々にやってもらいましょうね」「うん」サラリアは後ろにいた人たちに頭を下げる。城からきた侍従たちが、穴の上で木箱をひっくり返す。野菜の皮、魚の骨や内臓、肉の切れ端などがどんどん穴の底に溜まる。ゴミは、今日の朝の厨房で出たものを頼んでおいた。腐敗しておらず、臭いはしないことにサラリアは安堵する。子どもの野菜嫌いをどうにかしたいというのも、今回の目的の一つである。汚い・臭いは育てる上で問題なくても、食べると思うと距離を置いてしまうだろう。(美味しい野菜を食べてないからだと思うのよね)実際に、トールはこれまでは野菜をよく食べていた。だが、ドラコニアに来てからはよく残す。
「皆様」ラパンの軽やかな声が響く。「改めてご紹介いたします。こちらにいらっしゃるのがサラリア様です」女性たちの視線がサラリアに集まった。「今日はお集りくださってありがとうございます」サラリアの穏やかな声。ラパンの包み込むような優しい笑顔もあって、場を満たしていた緊張が薄れた。「サラリア様、今日はとても楽しみにしておりました」「ありがとうと言いたいのは私のほうです」「私もですわ。家から出られたのは本当に久し振りなので」竜人は番を自分の巣である家から出したがらない。竜人同士ならば、双方が同じように思っているので問題にならない。姫だったサラリアは閉じ込められる感覚に慣れていたので特殊。それ以外の番たちにとって、竜人たちの束縛は窮屈で息苦しいものだった。中には「久しぶりに外の空気を吸った」と泣いて喜んでいる番もいる。サラリアは竜人の執着心を初めて客観的に見た気がした。ちなみに、招かれているのは女性ばかりだった。男性の番もいるはずなのだが、ラパンによればオーレリウスが声をかけるのを嫌がったらしい。竜族の女性の恨みを買うのは嫌だったらしい。賢明だとサラリアは思った。.「外出したいと言うと不機嫌になるんです」「だったら一人で、というわけにはいきませんものね」羽のない種族にとって、浮島であるこの地は自由に行動できる場所ではない。「外出のときは旦那様に連れていってもらうしかありませんし」「おねだりも大変なのですよね」「それに、了承したあともずーっと文句を言ったりして」首を縦に振る動きがとても力強い。実感がこもっている。「それなのに、今回はあっさり」「うちもですわ」「サラリア様からの誘いだと言ったら、了承どころか行って来いとまで」竜族は上下関係がはっきりしている。
城から食事を運んでもらうようになって二日目の朝、サラリアはオーレリウスを呼んだ。そしてその日の夜から、サラリアとトールは食事のために城へ通うようになった。トールは、起きている時間のほとんどを食事に費やしている。行き来のことを考えるとずっと城にいたほうが効率的で、結局家には寝に帰るだけ。(城にはいるけれど……)ラーシュの姿を、見かけることすらない。城が広いこともあるが、オーレリウスが調整してくれているのだろう。この城の主であるラーシュの行動を制限してしまうことに申し訳なさはあったが、城で食事ができることはかなり助かっているので背に腹は代えられない。.「おはようございます」「ラパン様」ラパンが四人の子どもたちと一緒に部屋に入ってきた。続いて侍女たちによって大量の食事が運び込まれ、部屋の中は一気に賑やかになる。暴れ回るわけではない。ただ、ものすごいスピードで食事が用意され、片付けられている。サラリアとラパンは顔を見合わせ、苦笑する。(私だけだったら、つらかったわ……)最初はサラリアとトールは二人で食事をしていた。だが、食事量の圧倒的な差から、トールだけが食べている時間のほうが遥かに長かった。時間が経つと、一人で食べているのがつまらなくなったらしいトールに「母様も食べて」と強請られるようにもなった。一人前を食べたあとだ。しかも、その一人前はトールに合わせてサラリアにしては多め。だから、次からサラリアはゆっくりと食べることにした。しかし、時間をかけると料理は冷める。スープは冷めてもったりとしてくる。肉は冷めて硬くなる。魚にかかっていたソースの舌触りが悪くなる。唯一時間をかけて食べられるのは、サラダだけ。サラダを食べ続け……サラリアはオーレリウスに相談した。相談するほうも、相談されるほうも慣れはじめていた。
城から料理を運んでもらってトールの食事問題は解決。(なんて……考えが甘かったわ)「母様、このスープ美味しいよ」サラリアの目の前では、トールがスプーンを皿に勢いよく突っ込んで食事をしている。サラリアの教育により所作はきれいだが、その勢いとスプーンの上の盛りは豪快だ。(こんなことになるなんて……)サラリアは室内を見渡した。ここは城の一室。トールとサラリアの食事のために用意された部屋だ。オーレリウスの提案を受け、家に料理を運んでもらう予定だったのに。なぜサラリアたちが城にいるのか。◇◇◇初めての発現を終え、浮島からトールが戻ると同時に届いた料理たち。全て湯気が立っていた。(便利だわ)このときはまだ暢気に、そんなことを思っていた。城の使用人が挨拶もそこそこに飛び立つのも、仕事が忙しいのだと思っていた。しかし。「もっと食べる」皿のスープを一瞬で空にして、お代わりを強請るトール。スープをよそる。すぐに空になる。「もっと」皿を突き出される。よく食べるのはいいことだ。よほどお腹が空いたのだ。このときはまだ、多少驚きはあったが、子どもの成長と微笑ましく見ていた。だが。「もっと食べる」「トール、さっきので終わりだって言ったでしょう?」鍋一つ空にしても、「もっと食べる」と強請る。お代わりを要求してもいいか悩んでいると、玄関のドアがノックされた。「先ほどはとりあえず、出来ていたものをお持ちしただけだったので」「……とりあえず?」玄関の前に並ぶ使用人と、鍋。唖然とするサラリアの隣で、同じ光景を見たトールが喜んでいた。使用人たちも、喜ぶトー
「発現は半日ほどで終わるのですよね?」「はい。そのくらいで落ち着くと思います」オーレリウスの答えを聞くと、サラリアは踵を返した。「サラリア様?」「待っている間に、ご飯を作ろうと思います」当たり前のような返事だった。「あれだけ暴れたら、お腹が空くでしょうから」オーレリウスは一瞬だけ言葉を失った。王竜の発現。数百年ぶりの出来事。ドラコニア中が固唾を呑んで見守る一大事。それなのに、サラリアにとっては子どもの成長のひとつ。ただその規模と、これが地上で起きたときの想像には慄いたようだが。理解できれば、すとんと落ちるように受け入れる。(だから陛下は……)訣別のとき、サラリアはラーシュに「ラーシュだから愛した」と言った。ラーシュだから。あのとき聞き流した言葉の重みを、オーレリウスは初めて理解した。サラリアは最初から最後まで、ラーシュを竜王としてではなく、番でもなく、一人の男として愛していた。(三歳の息子の空腹を心配する姿など、普通の母親……)「……あ」思わず声が漏れた。.サラリアは振り返った。「どうかなさいましたか?」「いえ、その……説明を一つ忘れておりました」「説明?」オーレリウスは微かに視線を逸らす。その気まずそうな様子に、サラリアの眉間にしわが寄る。「発現すると竜人は成長期へ入ります」「それは伺っています」それは聞いた。つまり、『言いにくいこと』はこれではない。別のことなのだ。「それで?」先を促す。オーレリウスが珍しく歯切れが悪いので、少しだけ強めに。「成長期に入った竜人は」
ドラコニアへ移り住んで二日。家は地上からそのまま運ばれてきたため、室内は何も変わっていない。見慣れた本棚。慣れ親しんだ机。トールのお気に入りの椅子。全部そのままなのに、不思議と落ち着かなかった。サラリアは何度も窓辺へ歩いていく。外を見て、何もないことを確認する。(お客様が来るかもしれないから)そう自分に言い聞かせた。ブックカフェを営んでいた頃の癖。客が来ればすぐに迎えられるよう、窓の外を確認することは日課だった。だから。ただ、それだけ。そう思おうとする。だが、違うことくらい自分でも分かっていた。ここへ来てから店はまだ開いていない。客が来るはずもない。それなのに、足は窓へ向かう。(……違う)誰かを探している。自分でも認めたくない相手を。黒い竜を。ラーシュを。その事実に気づくたび、サラリアは小さく首を振った。違う。気になっているのではない。同じ空にいるから、意識してしまうだけ。そう自分へ言い聞かせた。.一方、トールの様子は日に日に悪くなっていた。熱は上がったり下がったりを繰り返し、機嫌も不安定。少し前まで笑っていたかと思えば、突然泣き出すこともある。そのたびにオーレリウスが様子を見に来た。朝。昼。夕方。夜。一日に何度も訪れ、魔力の流れを確認しては安心させるように笑って帰っていく。「もう少しです」そう言われ続けて迎えた、二日目の昼。突然、オーレリウスが血相を変えて屋敷へ飛び込んできた。「始まります!」サラリアには何も分からなかった。だが、竜族には分かったらしい。オーレリウスは眠っていたトールを抱き上げると、すぐに外へ飛び出した。「予定通り、無人島へお連れします!」そのままオーレリウスは竜へと姿を変え、大空へ舞い上がる。サラリアも慌てて庭へ飛び出した。高く。さらに高く。自分たちの浮島より少し上にある小さな浮島へ向かっていく。あそこが発現のための島。説明は受けていた。だが、頭で理解することと、三歳の我が子を一人置いてくることは別だった。数分後。オーレリウスだけが戻ってきた。「トールは!」問い詰めようとした、その瞬間だった。轟音。世界が白く染まった。「――っ!」無人島から何本もの白い炎が天へ突き上がる。遅れて凄まじい爆音。島全体が揺れた。サラリアは息
それから始まった蜜月期と呼ばれる時間をサラリアはほとんどラーシュの腕の中で過ごした。朝、目を覚ませば隣にラーシュがいる。食事をしていても抱き寄せられる。夜になれば当然のようにラーシュはサラリアを抱いた。竜族は体温が高く、ラーシュに抱き込まれるたびぽかぽかと温かくて安心したが―――問題があった。竜族と人族では体力が違いすぎた。ラーシュは加減していると言っていたが、それでもサラリアは毎夜抱き潰されて気絶するように眠りについていた。「ラーシュ、休憩……お願
至近距離にラーシュの顔があった。長い睫毛。 白い肌。 冷たい美貌なのに藍色の瞳だけが熱を帯びている。気づけば見上げる形になったラーシュの顔を見ていた。視線がラーシュのものと絡まった途端、サラリアの背筋を痺れるような甘さが駆け上がった。腰の奥がじわりと熱を持ち、身体の芯が溶けていくようだった。「な、なに……?」自分の身体なのに、自分のものではないみたいだった。力が抜ける。息が苦しい。頬が熱い。怖いのに、逃げたいのに、ラーシュから目を逸ら
サラリアが年頃になると、各国から見合い話が届くようになった。数年前から周辺国が天候不順による収穫高の減少からの食料不足に悩む中、サラリアのいる国は例年通りの収穫高ということで金色姫の価値が上がったからだ。五穀豊穣をもたらす神の化身。国に富を呼び込む幸運の象徴。父王はそんなサラリアを珍しい宝石でも見せびらかすように他国の使者に自慢した。宴の席では隣へ座らせ、「我が金色姫だ」と酔った顔で笑っていた。神秘的な存在として扱われることに慣れていたサラリアは微笑んでみせながら心の中では冷め切っていた。父王はサラリアを自慢
サラリアの国では、金色の髪は五穀豊穣を司る神の化身とされていた。滅多に生まれない神聖な色である金。その金色を持つサラリアが自分の娘であることに、血を次代に継ぐしか能がないと言われていた父王は有頂天になった。「金色姫さえいれば安泰だ!」政など何一つ理解していない男だった。現状で民が苦しんでいても何もしなかった。神話めいた存在であるサラリアを崇めることしかしなかった。だが、金色の髪は神の化身という教えは民に浸透していた。害す者には神罰が下る。その教えにより、父王がどれほど愚かでも誰も彼に手を出せなかった。だから父王はサラリアを常に傍に置いていた。愛情ではない。父王にとってサ







